文化・芸術

世界遺産イタリア編

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 
Chiesa di Santa Maria delle Grazie

入場:8:00~13:15(予約制)
休館:月曜日
☆フラッシュ撮影禁止

15世紀(1466年~1490年)にかけて建てられたルネッサンス建築の代表作。この教会に隣接する旧ドメニコ派修道院の食堂として使われていた所に、レオナルド・ダ・ヴィンチの名作「最後の晩餐」が描かれている。これは1495年から2年間かけて描かれた、左右8m、上下4mのテンペラ画の大作である。じっくりと時間をかけて描き進めるタイプの画家であった、レオナルド・ダ・ヴィンチはこの絵の制作にあたり漆喰の乾く前に描き終えなければならないフレスコ画法を嫌い、加筆や修正が自由なテンペラ画法を採用した。しかし湿気のために壁画は20年も経たない内に傷みだしたという。1726年から記録に残るだけでも6回の修復が行われ、筆が加えられた。ナポレオンの時代には馬屋として使われ、第二次世界大戦の際には、建物が爆撃にあい壊された。壁の前に砂のうを積み上げ保護していたためにこの絵は奇跡的に助かった。その時の模様と現在続けられている修復の様子がパネルで堂内に展示されている。修復作業は1947年に始められ、1980年からはブランビッラ女史の手によって後から加筆された部分を取り除き、レオナルドが描いた当時の壁画を復活させる作業が続けられていた。このダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」は連日見学のため列をなしているという。きっと映画の影響でしょうね。向かいの壁面にはジョバンニ・ドナート・モントルファーノ(1495年)の「キリストの十字架刑」のフレスコ画が描かれている。同じ頃描かれた絵なのにこちらは従来から伝わるフレスコ画の手法に基づいたので保存状態がよい。

隣接する教会の中には特に入らないが、「最後の晩餐」の絵画説明の後、売店で絵はがきなどを購入するために若干のフリータイムを取るので、興味のある人はその時に見学するとよい。大きな円蓋で覆われた内陣の設計はブラマンテによるもの。

<アクセス>

空路: ミラノへはアリタリア航空、日本航空の直行便をはじめ、欧州系航空会社多数の就航あり。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へは地下鉄Cadorna駅下車。

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初恋

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
 
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
 
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
 
林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまうこそこひしけれ

ウ~ン年前にこんな心境になった事あるかも?

by  島崎藤村

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伝説の画家

0031  今年は藤田嗣治の生誕120年にあたりますこれを記念して、その全画業を紹介する展覧会が初めて東京近代美術館で開催されます。

行きたぁい。

【絵画:カフェにて】

 
藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)は、東京美術学校を卒業後、フランスに渡り、モディリアニらとともにエコール・ド・パリの代表的画家として活躍しました。とりわけ、裸婦に代表される“乳白色の肌の優美な美しさは、多くの人々の心をとらえました。

その後中南米を旅行して日本に帰国し、二科展で活躍するとともに、第二次世界大戦中は戦争画も描きます。大戦が終わるとフランスに戻り、やがて帰化して、再び日本の土を踏むことはありませんでした。

 こうした波乱に満ちた生涯ゆえに、これまで藤田は、ともすると、個々の作品の検証をおいて、数々の逸話に彩られた伝説の画家としてのみ語られてきた感があります。

 この展覧会は、パリ時代から晩年にいたるまでの代表作約100点を、フランスやベルギーを加えた国内外から集めて展示します。一人の芸術家としての
藤田嗣治の全貌を、日本初公開作品約20点を含めたこれらの作品を通して探ることで、伝説ではない、あらたな藤田像を見出そうとするものです。

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亀山社中が閉鎖

Shachu1亀山社中が昨日で閉鎖され全国から龍馬ファンが殺到
亀山社中は、慶応元年(1865)、薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助をうけて、坂本龍馬たちが、長崎の亀山につくった結社の名前です。
幕末頃、亀山では「亀山焼」という焼物が一時焼かれていたものの廃窯となり、龍馬たちはその窯で働いていた人々の住居のあとを根城にしていました。
亀山社中の「亀山」はその地名をとったもので、「社中」とは「人の集まり」、「結社」の意味です。

亀山社中は、徳川幕府の打倒(倒幕)を目的とした活動を行うとともに、当時貴重だった蒸気船運用の技術を活かして、船の回送、船による人員・物資の運搬などの運輸業、また、軍艦・銃器の購入あっせんなどの商業活動を行っていました。
亀山社中が「日本最初の商社(カンパニー)」といわれるのはそのためです。

亀山社中には、龍馬ら武士の他に、町人・医者・農民などが参加しており、身分制度が厳しかった当時としては、非常に進歩的な集団でした。
結成当時に薩摩藩から支給された給料が、龍馬も他の者も平等に3両2分だったことからも、この事が分かります。
また、亀山社中のメンバーは、脱藩浪人が多かったので非常に元気がよく、ユニフォームの白い袴にちなんで、長崎では「亀山の白袴(しろばかま)」と呼ばれていたそうです。


慶応3年(1867)、亀山社中は土佐藩に付属することとなり、名前も「海援隊」と改められて、龍馬がその隊長に任命されました。
同年11月に、龍馬が暗殺された後も、各地で活躍を続け、明治元年(1868)に解散しましたが、その隊員の中から、のちの外務大臣陸奥宗光や、初代衆議院議長中島信行などの多数の人材を生むなど、龍馬とともに亀山社中・海援隊の名前は幕末史上に残るもととなりました。


現在でも、彼らが住んだ亀山社中の建物の一部が残っており、歴史フアンや長崎の街を愛する市民の会「亀山社中ば活かす会」によって、管理運営され、全国から訪れる龍馬フアンや観光客の皆さんのために内部を公開し、あわせて亀山社中には、幕末維新の時代に活躍した人々の写真を展示していました。
 
坂本龍馬について
坂本龍馬は、天保6年(1835)、土佐高知城下(現在の高知市)に郷士坂本家の次男として生まれました。
19歳のときに、江戸の千葉定吉の道場に入門し、北辰一刀流を修業しました。
修業後は土佐に戻り、武市半平太らが結成した土佐勤王党に加盟。
その後、同志と共に土佐を脱藩し幕臣勝海舟のもと、勝塾や神戸海軍操練所で航海術を学んでいます。
操練所が閉鎖されると、長崎に自分たちの理想を実現させるための結社を創りましたが、これが日本最初の商社・亀山社中(のちの海援隊)で、慶応元年(1865)のことです。

龍馬は、この亀山社中を足がかりにして、翌慶応2年(1866)に犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩とを結び付ける「薩長同盟」を成し遂げました。
この同盟の結成により、200年以上続いた徳川幕府を倒して天皇中心の政府をつくろうとする「尊王倒幕」運動が本格的になります。
そして、慶応3年(1867)、第15代将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返すという大政奉還を行いましたが、これも龍馬の発案によるものでした。
また、この頃同じく龍馬が策定した「船中八策」は、明治政府の方針を定めた「五箇条の御誓文」のもとになったものとして有名です。

このように、一介の脱藩浪人でありながら、龍馬が幕末の日本史上に果たした役割は、大きなものです。
しかし、もう少しで新しい時代を迎えるという、慶応3年(1867)の11月15日、龍馬は潜伏中の京都で暗殺されました。
33年の短い生涯でしたが、その人柄や生き方は忘れられることなく、今でもたくさんの人々に共感を与えつづけています。
長崎にも、風頭の山頂から遠い海の彼方を見渡す銅像が、たくさんの人の寄付により建てられ、私たちに幕末のロマンを語りかけています。

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